日本酒と詩歌-1

日本酒と詩歌 - 井伏鱒二さんの漢詩訳 ー

私の地元広島県出身の作家、井伏鱒二さん。小説「山椒魚」や「黒い雨」がよく知られていますが、「厄除け詩集」には多くの詩や漢詩訳がまとめられています。

その中で、酒に関する漢詩訳を二編紹介します。

于武陵(う ぶりょう)の五言絶句「勧酒」漢詩訳。

後半の

“ハナニアラシノタトエモアルゾ 

 「サヨナラ」ダケガ人生だ”

がとても有名ですが、「勧酒」(酒をすすめる)という題からして、前半は酒のことが書かれています。その訳は

コノサカヅキヲ受ケテクレ

ドウゾナミナミツガシテオクレ

というものです。

全訳は

コノサカヅキヲ受ケテクレ

ドウゾナミナミツガシテオクレ

ハナニアラシノタトエモアルゾ 

「サヨナラ」ダケガ人生だ

分かりやすく表記すると

 この杯を受けてくれ

 どうぞなみなみ注がしておくれ

 花に嵐の例えもあるぞ

 「さよなら」だけが人生だ

漢詩の直訳は、
  
君にこの金色の大きな杯を勧める 
なみなみと注いだ酒を遠慮しないで飲んでくれ
花が咲くと雨が降ったり風が吹いたりするものだ 
人生に別れはつきものなんだ

ということになるようですが、
そこを単なる翻訳ではなく、
井伏さんならではの訳になっているのが、
うれしいし、楽しいです。

※「サヨナラダケガ人生ダ」というフレーズは、林芙美子(はやし ふみこ、日本の小説家。代表作『放浪記』など)が、港で船を見送る人との別れを悲しみ「人生は左様ならだけね」と言ったせりふ を一緒にいて聞いていた井伏がさんが、意識したということです。

もう一遍

高適(こうせき)の
「田家の春望」  

漢詩の直訳・翻訳は、

門を出でて何の見る所ぞ、
春色 平蕪(へいぶ)に満つ。
嘆ず可し 知己(ちき)無きを、
高陽の一酒徒。

門を出れば何が見えるか。
若草の萌え立った平原は見渡すかぎりの春景色だ。
それにしても情けない、天下にひとりの理解者もおらぬとは、
高陽の一酒徒たるこのおれさまを。

(中国名詩選 松枝茂夫=編 )

これが井伏さんの訳になると

ウチヲデテミリヤ アテドモナイガ
正月キブンガ ドコニモミエタ
トコロガ 会ヒタイヒトモナク
アサガヤアタリデ 大ザケノンダ

現代文にすると

家を出てみりゃ あてどもないが
正月気分がどこにも見えた
ところが会いたい人もなく
阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ

これは「勧酒」よりも、かなり井伏さん寄り、自分に置き換えた訳ですね。阿佐ヶ谷あたりで中島健蔵さん達と飲んだくれていたんですかね。高適(こうせき)さんもびっくりでしょうね。

二つの詩はどちらも中国のものなので、酒は日本酒ではないでしょう。しかし井伏さんの漢詩訳となれば、日本酒の可能性は大です。

近頃は、友と日本酒を酌み交わす時、

「さよなら」だけが人生だ

が、こころに響きます。

だからこそ、

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ

という気分になります。

これが最後の酒、最後の時。

別れ際の「元気でまた飲もう!」という言葉に、昔のような軽いあいさつではなく、しみじみとした惜別の思いをこめてしまいます。

[2023.9]

※カタカナ表記の訳は「厄除け詩集」(講談社文芸文庫)によるものです。
※「勧酒」「田家春望」の漢詩訳は、昭和10年3月初出 
「作品」に掲載された「中島健蔵に」の中の作品です。